I Love Crete! 第4弾-参考文献と戦史概説

インスト予定のTOMMYさんから、「クレタ戦の通史が知りたい」との要望があったので、参考文献を上げておきます。また、昨日同様、ルールブックから、意訳で戦史概説を引用します。一人でも関心を持ってくれれば、これ幸い。

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歴史群像NO.42「クレタ島降下作戦」(学研)
もっとも、お奨めがこれ。巻頭の戦史ドキュメントで、図表も多く、とても読みやすいです。おそらく、「クレタ島」関係では、最新の通史記事でしょう(それでも6年前、やっぱりマナーだな~)。

「ヨーロッパ空挺作戦」欧州戦史シリーズVOL.22(学研)
かの有名なムック本。ドイツ軍だけでなく、米英伊日ソの空挺部隊について、まんべんなく記述されています。が、クレタ島戦は、あまり記述はなく(イラストを入れて7Pくらい)、先の歴史群像NO.42があれば十分です。これらは、抄訳でしょう。

「ストーミング・イーグルス-ドイツ降下猟兵戦史」(大日本絵画)
ベタ訳なら「嵐を呼ぶ降下猟兵」。手に入るものとしては、ドイツ降下猟兵について、もっとも詳しい戦史です。臨場感あふれる写真も多く、雰囲気は抜群。が、手記などからの引用が多いので、通史というより、副読本として考えるといいかも。ちなみに題名は、アメリカ軍第101空挺師団の愛称「スクリーミング・イーグルス」
からとったものだと思います。

「第二次世界大戦(上)」(中央公論新社)
いわずと知れた、リデル・ハートの著名な通史。P228~235に、クレタ戦の記述あり。クレタ戦だけでなく、ギリシア戦役の流れで書かれています。

「空挺作戦-Airbone」第2次世界大戦ブック36(サンケイ出版)
古典中の古典(昔はこれしかなかった)。古いけど、イラストがグッドです。中古で手に入ることができます。内容については何分、時代が時代なので、ぼちぼちかと(どちらかというと、ノスタルジアかな?)

で、ゲーム自体の参考文献は、TaciticsNO.12(HJ)にゲームガイドがあるだけと、実に寂しい状況です(しかも絶版)。それでも、本家アメリカではそれなりに人気があったようで、キプロス島攻略(仮想戦)のエクスパンション(!)があった、とか。Generalあたりで、どなたかご存じの方がいたら、教えてください。

また、表題アイテムではありませんが、「Operation Mercury」(GMT)については、CMJ51号に簡単な紹介がありました(半ページほど)。こちらは、まだ、手に入ると思います。

最後に、以下は、ルールブックからの引用抜粋です。参考にどうぞ。

クレタ島 戦史概説

 1941年5月20日早朝、クレタ島の英連邦軍及び連合軍は、ギリシア失陥以来、予測された、ドイツ軍の侵攻を待っていた。13日後の6月1日には、これらの軍の撤退が終了した。英連邦軍は、ちょうど1年前に行われたダンケルクと同じ撤退を、再度、実行したのだった。クレタ島の闘いは、戦争中、もっとも苦難に満ちた戦闘の一つであった。それは、ドイツ軍が大規模な空挺攻撃を行った、最初で最後の注目すべき時代であった。クレタ島の闘いは、重要な闘いであった:それが指し示す軍事的教訓だけでなく、その結果がもたらした戦略的な意味合いにおいて、である。

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島の戦略的な位置
 地中海の中央を約する島の位置が、古代より、クレタ島に重要性を与えていた。紀元前1500年のミノス王の侵攻以来、ギリシア、ローマ帝国、アラブ、ヴェネチアそしてトルコによる侵略を受けてきた。第2次世界大戦では、クレタ島は、枢軸軍・連合軍双方にとって、潜在的な爆撃基地と見なされていた。連合軍の手の内にあるときは、ルーマニア油田に脅威を与え、枢軸軍の手の内にあるときは、東地中海を支配し、スエズ運河に対する爆撃基地になるものであった。クレタ島の攻撃を指示した総統命令28号では、この最後の項目が強調されていた。ギリシアとバルカンは無力化されたが、しかしながら、未だに脅威は残っていたのである。
 1940年10月28日、イタリア軍によるギリシア侵攻によって、クレタ島は、にわかに脚光を浴びることになった。1週間後に、イギリス軍は、海軍の燃料基地を設定する目的で、スーダ湾に上陸を行った。連合軍の爆撃機兵力は、未だ十分でなかった-クレタ島の飛行場には、まだ、爆撃機が到着していておらず、問題にならなかった。港湾でさえ、ほとんど準備はなされていなかった。英国のチャーチル首相は、スーダ湾を「第2のスカパ・フロー」にする構想を持っていた。チャーチルの構想は、おそらく誇大広告だったに違いない。エジプトの連合軍司令部は、既存の基地を防衛するにも、装備や兵力が不足していた-単独で新たな港湾施設を作り上げるなど、なおさらである。スーダ港は、ずっと以前からある旧式のもので、他の港では、イラクリオン港だけが、ごく小型の船舶を扱うことができた。クレタ島は、バルカン半島を急襲できる基地として、軍事的な潜在力を見込まれていた。政治的には、防衛条約を履行するイギリス介入の象徴として、また、トルコを連合軍に引き入れるために必要とされていた。ドイツ海軍の首脳部は、在ギリシア英軍の補給線を断ち切るために、イタリア軍にこの島の占領を打診していた。ギリシア征服を含めたクレタ島の領有は、ルーマニア-ダーダネス海峡-コリント半島-イタリアと続く、イタリアの石油供給ルートを防衛することにもなるであろう。イタリア軍は、そのことがはっきりしてからも、クレタ島侵攻計画を考慮することなく、イギリス軍による制海権支配に直面しても、全くの無責任状態であった。

連合軍の準備活動
 クレタ島のイギリス本国及び英連邦軍は、ギリシアで敗北したイギリス派遣軍の残余で構成されていた。これらは、ギリシアでドイツ軍の電撃戦をくらい、今や消耗し、組織崩壊し、壊滅状態にあった。彼らは、全ての重火器をギリシアで失い、ごくわずかな貴重な軽火器を所持するだけだった。この軍隊は、相応のライフルにも事欠く有様だった。特に砲兵と後方支援部隊は、基本的な装備を致命的なまでに失っていた。
クレタ島のギリシア軍は、イギリス軍よりさらに悪い状況にあった。正規兵は、エピルス(アルビニア国境地帯)に海上輸送され、そこで4月に捕虜になっていた。クレタ島の兵力は、現地徴募兵とGendarmes(警官隊)から成り立っていた。Gendarmes は訓練されたグループだったが、軍事教練は、ほとんどあるいは全く、受けたことがなかった。ギリシア軍は、武器の不足というハンディキャップも抱えていた。ライフルを持っている部隊さえ、数回の斉射分の弾薬しか、持っていなかった。しかしながら、戦闘の間、一部のギリシア軍は、その熱狂性やドイツ軍の火器の捕獲によって、ハンデキャップを克服したのである。
 島の守備隊は、かなり後になっても、防御の準備ができていなかった。長い間、スーダ湾地区の総兵力でさえ、6000名を越えることはなかった。問題の一部は、頻繁な命令変更にあった。クレタ島には、6ヶ月間に7人以上の司令官が介入していた。英派遣軍の残余の到着とともに、チャーチルは、勇猛果敢な指揮官を要望していた。イギリス軍の指揮官が不足していたため、彼は、ギリシアで第2ニュージーランド師団を率いた、B・C・フレイバーグ将軍を任命した。
フレイバーグは、ハニア近郊に司令部を設置し、3つの飛行場の全てに、防御部隊を派遣した。あるだけの装備が支給され、兵力配置は改善された。要塞構築は、工兵装備の麻痺的な不足のため、残念ながら放棄された。あらゆる物資の不足は深刻で、ありふれたスコップでさえ、欠乏する始末だった。フレイバーグは、使用できる補給も武器もないと、訴えた。兵站ネットワークは、めちゃくちゃだった。侵攻第3週の「電撃戦」の期間は、一日700トンだったスーダ港の揚陸能力は、100トンにまで落ち込んだ-夜間の陸揚げだけが可能だった。13隻の難破と引き替えに、たった15000トンの補給が、スーダ湾に揚陸されたにすぎない。
謀略面では、イギリス軍は準備万端だった。ギリシアの情報部は、差し迫った攻撃の準備を報告していた。これらは、また、クレタにとって大きな意味を持つ、海上侵攻部隊の集結も伝えていた。基本的に、防衛計画は、該当戦区をカバーする、諸兵科混合の独立旅団に頼っていた。それぞれの旅団は、飛行場とともに、それに隣接する海岸線を守ることになっていた。このことは、連合軍部隊を、主要なマレーメ・スーダ地区への集中配備の代わりに、3つの地区に分散することになった。連合軍は、以下の表のように分割された
(数値は部分的にドイツ軍の推量を含んでいる)。

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枢軸軍の準備活動 
 なぜ、枢軸軍はクレタ島を攻撃したのか?このことは、連合軍が防衛を決断することによって、もたらされた。ヒトラーは、バルカン半島を安全にしておきたいと考えていた。彼の頭の中は、まもなく開始されるソ連侵攻(バルバロッサ作戦)のことで、いっぱいだった。イギリス軍のバルカン半島への介入によって、このきわめて重要で大規模な計画が頓挫することなど、我慢ができなかったのである。この地方のもたらす地下資源-特にルーマニアの石油は、死活問題だった。総統命令第18号(1940年11月)では、おそらく地中海に基地を置くであろう連合軍の航空攻撃から、ルーマニアのプロエスティ油田を防衛する必要性が、強調されていた。バルカン半島からバルバロッサ作戦までの枢軸軍各国の軍事力の増大は、ロシア戦役において、人的資源の欠乏を招くことは明らかだった。これらのことから、連合軍は完全にバルカン半島から駆逐されなければならなかった。
 バルカン半島を攻撃するマリタ作戦においては、空挺部隊のよる侵攻が、計画の根幹をなしていた。ドイツ軍の空挺部隊は、イギリス軍の基地があるギリシアの島々を襲撃するために、準備待機していた。4月上旬には、実際には、増強された第2降下猟兵連隊だけが準備を完了していたが、この部隊はその後、コリント海峡にかかる橋梁を急襲するために投入された。
 クレタ島に対する空挺侵攻のアイディアは、ドイツ軍空挺部隊の司令官であるシュトゥデント将軍によって、推奨されていた。彼とその幕僚は、空挺部隊が決定的な価値を持つということを、証明したいと望んでいた。クレタ島はその絶好の機会であり、彼はマリクール作戦と知られる、大胆な計画を準備した。
シュトゥデントの計画の核心は、クレタ島の迅速なる占領にあった。彼は、第1日目に、7箇所の別々の目標を、同時に攻撃することを要望した。その後、彼は、主要な4つの目標-3つの飛行場とスーダ港を占領するという、野心的な計画の修整を受け入れた。連合軍の抵抗は、微々たるものだと考えられた。計画の大胆不敵さとスピードの速さが、ヒトラーに提示された。その計画は、ロシア侵攻を支援するために、迅速に空軍を北方に配置転換するという、彼の要求を満たすものであった。
空挺攻撃は、輸送機の不足によって、2段階に計画された。第一波は早朝に降下し、マレーメ飛行場、ハニア政庁、スーダの港湾施設を占領することになった。グライダー分遣隊は、要地の強襲を先導し、対空大隊を殲滅する役割が与えられた。午後には、第2波が到着する。1個連隊がレティモ飛行場を攻撃し、もう一つの増強連隊がイラクリオン飛行場を襲撃する予定になっていた。第5山岳猟兵師団からなる空輸部隊が、第三波を形成し、主にイラクリオンへの空輸が計画されていた。海上輸送隊は、正規の上陸用舟艇がひどく不足してために、副次的な役割を受け持つにすぎなかった。侵攻「艦隊」とは、実際の所、数隻のイタリア軍駆逐艦に守られた、雑多な漁船の寄せ集めにすぎなかった。船団は、空輸できない重火器や若干の歩兵部隊を運搬していた。一船団がマレーメ海岸に向かい、もう一つがイラクリオンの東の海岸に向けて、出港した。この作戦に動員された戦力は、以下の通りである。

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クレタ島攻撃に準備されたドイツ空軍は、第4航空艦隊のほぼ全体で構成されていた:総計で、716機の攻撃機と偵察機、加えて493機のJu52輸送機と78機のグライダーであった。ギリシア戦役が終了して以来、ルフトバッフェは、断続的にクレタ島を爆撃していた。イギリス空軍は、それに損失を与えることはできず、5月19日は全ての行動可能な航空機は、クレタ島から撤退していた。その翌日に、ドイツ軍の攻撃が始まったのである。

分岐点になった行動
戦闘は、血なまぐさく、苦難に満ちたものとなった。空挺部隊は、スズメバチの巣の中に降下してしまい、全ての戦区において、考えられぬほどの大損害を被った。しかしながら、連合軍もルフトバッフェの圧力を徐々に感じ始めていた。この戦役の真の転換点は、第1日目の夜に起こった:ベテランの第22ニュージーランド旅団が、戦区の最重要拠点である107高地を放棄するという、不可思議な撤退をしてしまったのである。
ドイツ軍は、第2日目の早朝に攻撃をかけるまで、107高地とマレーメ飛行場がもぬけの殻になっていることに、気づかなかった。イギリス軍は見えないところに潜んでいると思われており、彼らはその日のほとんどを、飛行場を守るために費やした。イギリス軍の逆襲が予測された夜間も、連絡の遮断からその場を離れることができなかったのである。翌日、ドイツ軍は、始終、反撃を警戒しながら、必死になって空挺堡の拡大に努めたのである。夜が来たとき、空挺堡は、まだ小規模であり、また、遅すぎたものであった。しかしながら、イギリス軍が主導権を取り戻すことは、決してなかったのである。
 ドイツ軍の継続的な増強は、やむことはなかった:そして、ルフトバッフェは、連合軍部隊の移動を混乱させたのである。25日になって、ドイツ軍は、「収容所の谷」から直接、海につながる、強固な連続した戦線を構築した。ドイツ軍は4個連隊をもって攻撃をかけ、連合軍の前線は崩壊した。フレイバーグ将軍は、27日に撤退命令を出し、南部の海岸に向けた長い敗走が始まった。6月1日になって、全ては終了した。両軍の損害は、途方もなく大きいのものだった。

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回想と結末
 ドイツ軍は、クレタ島の戦いに勝利した。連合軍は、兵員や装備、船舶の莫大な損失を伴う、もう一つの「ダンケルク」を演じることになった。この戦闘は、単なる軍事的結末を、はるかに超えた影響をもたらした。この戦闘は、戦術的教訓よりも、空中機動戦術の発展に、より大きな影響を与えたのであった。
 イギリス軍の失敗は、確かに困窮はしていたものの、単に物資の欠乏によるものだけではなかった。それは最終的には、部隊指揮の失策によるものだった。個々に見れば、それぞれの戦区の指揮官は、持てる兵力と装備を活用する上で、恒常的な主導権不足を露呈していた。イラクリオンでは、現実的にはドイツ軍の攻撃を打ち負かしていたにもかかわらず、旅団指揮官は防御的な姿勢を続けていた。一方で、レティモでは、戦区の司令官は、積極的な警戒活動を続けることで、敗退した降下兵を精力的に追撃した。彼は、降下猟兵の1グループを壊滅させ、残りを狭い地域に押し込んだ。これは、島のあちこちで起こった出来事だった。
 第1日目の夕刻に、マレーメでは、第22ニュージーランド大隊が、旅団司令部との連絡途絶から、分断されたものと判断していた。午後の反撃は失敗し、近隣の大隊から約束された支援は、実現されなかった。他の戦線からの情報途絶や大隊の戦意の低下、前線からの圧力によって、大隊は、マレーメ飛行場の防衛に欠かせない107高地からの撤退を発令したのである。
 失敗の最大の要因は、旅団司令部にある。戦闘部隊は、飛行場の守備ではなく、海岸の防衛に回されていた。最も重要なマレーメ飛行場は、防衛の中心ではなく、旅団の周辺防御陣の一端でしかなかった。第22大隊の近くには、装甲車輛や対空砲、海岸砲台、イギリス空軍の兵員が存在していた。これらの兵力は、大隊指揮官の指揮下にはなかった。早朝の空挺攻撃の後、第22大隊を除き、戦区の部隊はほとんど敵に遭遇しなかったが、これらは、なにも行動を起こさなかったのである。もし、旅団司令官が、第22大隊が重要な地点を保持しており、そして、頑強に抵抗している、と判断していたら、第1日目の夜間撤退は、なかったかも知れない。さらに、増援の計画が明確に伝達されていたら、飛行場の防衛は安泰であったろう。
 空挺戦術は全く新しいものであり、その進取性は畏怖の念さえ生じさせていた。連合軍の指揮官は、第一次世界大戦を経験したものばかりであり、この「未来派」的な戦術に遭遇したことはなかった。イギリス軍の一番の錯誤は、ドイツ軍の航空輸送は飛行場でなくともどこでも行える、と考えていたことであろう。加えて、全地区で実施された空挺降下は、実際以上に、大規模な攻撃が行われた、との印象を与えた。主攻勢軸は、容易に見分けることができなかった。降下兵が敗北した、もしくは食い止められたとの報告が届いたときには、戦闘はすでにドイツ軍の勝利に終わっていたのである。誰も気づかなかったが、約1000名の降下猟兵が、全く探知も抵抗も受けずに、タヴロニッツ河の西に降下していた。海上からの侵攻は、不明だった。この件について、連合軍の諜報網は、ほとんどの情報を捉えていた。フレイバーグ将軍は、ドイツ軍の海上兵力は5月17日に行動開始ができるだろう、という情報を得ていた。侵攻の主力は海上兵力である、という見解から、度重なる警報が出された。1年以上にわたる、ドイツ軍によるイギリス本土への海上侵攻の警戒が、イギリス軍に予断を生じさせていた。この侵攻に備えて、兵力は海岸部に展開された。イギリス軍の兵力配置と予測情報が、本当の突撃兵力に対する防衛計画を、実際には、阻害したのである。
 イギリス軍が多くの問題を抱えていたにもかかわらず、ドイツ軍は危うく敗北するところだった。5月21日の黎明に、107高地に突撃した部隊は、大損害を出し、消耗し、ギリギリの状況にあった。もし、イギリス軍が撤退しなかったならば、ドイツ軍を挫折させる最大のチャンスがきたであろう。マレーメの失敗は、クレタ島における、ドイツ軍空挺攻撃の完全な崩壊を、意味したに違いない。
 当初から、空挺降下の作戦立案は、拙速であった。5月15日を最終期限とする攻撃の決定は、4月23日になってもなされなかった。兵員と作戦資材の準備期間は、たった23日間しかなく、ドイツ軍は、海上侵攻を困難にする上陸用舟艇の不足や、ギリシアの飛行場の未整備状態に直面していた。コリント運河橋の破壊封鎖のため、燃料が欠乏し、5日間の作戦遅延をもたらしていた。ドイツ軍のもっとも大きな問題は、欠陥情報によるものであった。連合軍の将兵は、実際には、ドイツ軍の見積もりの3倍以上に達していたのである。
情報部の報告を鵜呑みにしたシュトゥデント将軍は、初日に全ての重要拠点を奪えるものと目論んだ。クレタ島は、たやすく、バルカン戦役における、最後の捕虜獲得の機会となるに違いない。連合軍の配備情報の不足と相まって、この考えが、敵の真上に空挺兵を降下させることになった。この計画を最終的に救ったのは、攻撃箇所を当初の7つから4つに減少させた、彼の上司の保守主義にあった。
この保守主義は、その空挺軍に見切りをつけさせることになる。ヒトラーは、後にシュトゥデントに語った。「空挺部隊の時代は終わった。空挺軍は奇襲兵力であり、その奇襲効果を失った空挺軍に、未来はない。」1941年9月以降、空挺兵は、ロシア戦線で単なる歩兵の役割を演じることになる。
シュトゥデントは、後に語っている。「クレタ島は、空挺部隊の墓場であった」と。クレタ島の奪取が多くの空挺兵を死に至らしめたというよりは、根本的に空挺強襲という考え方そのものが、甚大な損害をもたらしたものであった。シュトゥデントは、クレタ島で成功すれば、同様にキプロス島を攻撃できるものと、期待していた。そこからヴィシーフランス政府のシリアに上陸し、イラクの油田とスエズ運河に脅威を与えることができるであろう。これらの計画は、ヒトラーのインド侵攻と同様に、夢物語以上のものではなかった。ドイツ軍が再び、大規模な空挺強襲を行うことはなかったのである。
しかしながら、その教訓は、連合軍には伝わらなかった。英国の新聞と政府筋は、占領の素早さと戦闘の斬新さを、強烈に印象づけられた。大英帝国の最良の兵力が、ちっぽけなパラシュートにぶる下がった敵に、打ち負かされたのである。これは、イギリス侵攻の大規模なリハーサルだと見なされた。チャーチルは嘆いている。「我々は、25万人にも及ぶ、落下傘・グライダー・簡易輸送機による空挺侵攻を、よくよく考えなければならない。軍人もそうでないものも、この敵を見つけ次第、迅速に撃滅しなければならない。」この作戦の斬新さは、連合軍の作戦参謀たちに強烈な印象を残し、戦闘が終息する以前に、チャーチルはイギリス軍空挺部隊の拡大を命令したのである。「このように、我々は常に敵の後塵を拝している。我々は、幾多の経験から学んで、ドイツ軍をモデルにした、5000名の空挺兵と空挺師団を所有すべきである。」最終的に、連合軍は多くの空挺師団を創設し、幾多の複数師団による空挺降下を行った。その最も有名なものが、35000名の空挺部隊が参加した、マーケット・ガーデン作戦である。
多くの犠牲にもかかわらず、ドイツ軍の降下猟兵たちは、戦術的な成功を収めただけであった。ドイツ軍司令部が、間違った決定をせずに、あれほどの損害を出さなかったならば、戦略的な成功といってもよかったであろう。計画の失敗と奇襲効果の喪失にもかかわらず、彼らは戦闘に勝利した。戦略的な敗北を回避しえたことは、その後の戦役で、空挺攻撃の脅威を維持することに役立った。降下猟兵は、中東のイギリス軍に脅威を与え続けた。ロシア戦線ならば、装甲部隊の縦深突破に連動した空挺作戦は、あのおそろしい41年の冬の前に、ドイツ軍にモスクワを獲らせたかも知れない。しかし、クレタ島の損害故に、ドイツ軍の参謀本部には、いかなる空挺攻撃もありえなかったのである。
 イギリス軍は、送り込まれた空挺部隊を半身不随にしたということは理解していたが、地中海戦域には、もはや強襲を行える空挺部隊がいないということを、知らなかったのである。3週間後、バルバロッサ作戦が、戦略的な状況を一変させた。残りの戦争期間中、クレタ島は、攻勢兵力はほとんどなく、ドイツ軍の防衛基地として要塞化された。皮肉なことに、イギリス軍は、敵がそれ以上に地中海での作戦を拡大させないために、クレタ島を防衛し、また、ドイツ軍は、敵がバルカン半島に対する空軍と海軍の反撃基地にしないように、クレタ島を攻撃した。実際、それが起こった後は、クレタ島は、戦争期間中、両軍にとってまったく魅力のない、僻地に成り下がったのである。

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この記事へのコメント

YB-TOMMY
2006年06月07日 20:58
おお、早速の大部のドキュメントをありがとうございます。
手近には歴史群像があったので覗いてみます。(ルールだけで時間一杯かも...)
キプロスバリアントはv18#3に収録されています。オークション等の際はインサーション(付録)のマップが付いているか気をつけましょう。
http://grognard.com/indexes/a42.html
mitsu
2006年06月07日 21:38
キプロス情報、ありがとうございます。向こうのオークションでもないと、手に入らないんでしょうね。もっとも、今はきっとソロアイテムでしょうから、クレタ島キャンペーンと2in1のマルタ侵攻を、人(!)と対戦してから、考えます。

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