I Love Crete!第3弾-ユニット列伝の補足を

 前回の「ユニット列伝」を補足するために、ルールブックから、戦術と装備の部分を、意訳で引用します。少し長いですが、どうしてあの数値になったのか、こだわりのデザイナーさんの評価が見えると思います。
(あくまで、引用のための意訳です。省略や他の資料からの付け加えもありますので、ご了承ください。)

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立体的包囲作戦-ドイツ軍の試み

 空中機動戦術として知られる、立体的包囲作戦の近代概念は、30年代半ばにロシア軍が実施した大規模な空挺降下演習に、起源を発する。この演習を観戦していたドイツ軍のオブザーバーには、シュトゥデント大佐も含まれていた-後にドイツ空挺軍の指揮官となる人物である。1938年1月1日、彼は(シュトゥデント司令官として)指揮権を掌握し、この新しい「航空大隊」と大規模な編成を発展させるべく、実質上のフリーハンドを与えられた。有名なドイツ軍「降下猟兵」師団は、こうして始まったのである。

訓練
 全てのドイツ軍降下兵は、志願兵からなり、訓練プログラムに入る前に徹底的な審査を受けた。その上、さらに、訓練が完了するまでに、3分の2がふるい落とされた。実際のプログラムは、3段階であった。第1ステージは、通常の歩兵の軍事訓練に似た、基礎コースからなっていた。次のステージは、降下訓練学校の教練が、2ヶ月間、行われた。第三の最終ステージは、降下部隊に附属して行われ、6ヶ月間の訓練となっていた。
 部隊に編成される前までに、降下兵たちは6回の訓練降下を実施した-最後の降下では、約10機の輸送機から中隊隊形で降下した。ドイツ軍の戦術ドクトリンは、地上での拡散防止をモットーとしており、降下兵は350~400フィートの高さから降下することを、基本としていたのである。この高さならば、空中を降下する時間は1分以内であり、風による漂流の影響を、最小限に抑えることができた。理想的には、全中隊は、着地後5~10分以内に集結できるとされていた。

一般的な戦術
 シュトゥデント将軍は、今日、我々が「インクの一滴」と呼ぶ、区域を支配するための、戦略理論に、大きく貢献した(彼の類推は、「拡散する油滴」の考えから、もたらされている)。着地終了後、降下兵は部隊を編成し、その後、他の部隊を吸収し、支配地域を広げてゆく。広く分散した降下は、実際以上に大規模な兵力が投入された、との印象を与え、同時に、防御側に主たる目標を混乱させることになる。
 このような作戦の鍵を握るのが、タイミングである-複数地点への同時降下は、奇襲効果と戦術的な優位性を与える。タイミングは、後続の降下部隊や地上部隊の援軍についても、同様に重要である。誰もが、1944年に行われたマーケット・ガーデン作戦の悲惨な結末については、よく知っているであろう。
 ドイツ軍の理論は、空挺降下による絶大な奇襲効果によって、1940年のオランダとベルギーへの空挺強襲が成功したことで、全世界に鳴り響いた。クレタ島のケースではこうはならなかった-空挺攻撃が予期されていたのである。
 おそらく、ドイツ軍の最も大きな失敗は、迅速な飛行場の占領に、依存し切っていたことにある。飛行場は、戦闘を継続するための重装備と増援部隊の搬送に、必要不可欠なものだった。この欠点は、ゲームにおいても裏付けられている。ドイツ軍が迅速に飛行場を占領できなければ、攻撃は継続できなくなり、事実上に防御側と立場を変えることになるだろう。

装備
 各降下兵は、拠点を固めるのではなく、区域を拡大するために、軽装備であった。降下兵は、覚醒剤と乾き止めを含む、2日分の糧食を携行した。クレタ島では、各兵士は、9mmのシュマイザー・サブマシンガン(MP38)で武装していたが、弾倉は2つだけだった。各第1分隊の分隊長だけが、降下時に武器を携行していた。他の兵士は、12人分の武装の入った兵器コンテナから、武器と弾薬を回収した。
 他に降下兵によって使用された兵器は、81mm迫撃砲やMG42機関銃、20口径の対戦車砲、75mm/LG40無軌道砲があった。標準的な輸送機は、頑丈なJu52/3mだった。
標準的な積載量は、12名の降下兵と4つの兵器コンテナであった。

組織
クレタ島作戦まで、空挺部隊は、もっぱら、空挺強襲にのみ使用された。空挺部隊は、重装備を持っていなかったが、後に、ロシアやアフリカ、イタリアの戦いでは、それを受け取ることになった。組織編成は、以下のように、クレタ島戦時のものが、ほぼ、最高であった。比較のために、標準的なイギリス軍歩兵大隊のものを載せてある(省略)。実際には、クレタ島にいたわずか2個大隊のみが、この通りの編成であり、それでさえも何らかの装備の不足を抱えていた。
 両軍は後に、大型グライダー-対戦車砲や軽車輛を含む重装備を運搬できる-を使用することによって、空挺降下の欠点を埋め合わせることにした。また、連合軍は、空挺作戦の降下範囲を限定することにした。そのことにより、空挺部隊の降下ゾーンに素早く移動する地上の救援部隊と協力して、より多くの任務を行えるだろうと考えた。両軍が厳しい現実から学んだ、最終的な教訓は、降下の目標を一つに絞り込むことだった。

グライダー部隊

 グライダー部隊による強襲は、第2次世界大戦初期においては、全く新しい戦術手段だった。1939年11月に編成されていたが、ドイツ軍はエバン・エマール要塞の破壊攻撃まで、これを使用しなかった。彼らが、クレタ島では格段に拡充されて、用いられた。しかし、ドイツ軍が利用できるグライダーの数は、少なすぎた。全ての突撃大隊は、書類上は、グライダーを使用できると考えられていたが、実際に十分な数が揃っていたのは、1個大隊だけであった。以下の表は、クレタ島で使用されたグライダー部隊の概数を表している(全ての数値は推測である)。 これらは全て、第一波として、マレーメ及びスーダ地区に投入された。

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